屋号はシエル☆

私は自然を眺めるのが大好きです。
とてもシンプルさを感じるんです。
高い木が低い木に優越感を持つこともなく、雑草がその低さに劣等感を持つこともない。
きれいな花を咲かせ、実を実らせるものもあれば、そうでないものもある。
でもそこにはなんの比較も評価もない。
ただそれぞれの個性を表現し、すべて欠かせない存在だと認めあっている。
枝から葉が落ちる時は、なんの迷いも躊躇もなく、その瞬間、ただ落ちる。
今、落ちるべきかもうちょっと待つべきか・・・とか
周囲の様子を見てから・・・とか
さっきの葉っぱより遠くへ飛ぼう・・・なんて考えることもない。
落ちる時が来た時、ただ落ちる。
風の向かう方向へ、風に乗って落ちる。
川の水は、低い方へ向かって流れる。
流れようとか流れたいと思っているわけではなく、ただ低い方へ向かっているだけ。
そしてその先にある大海原にいつかたどりつく。

| 私は自然を眺めながら、大きな受容と流れ、そしてその奥にある存在を感じてきました。 自然全体に行き渡っている、偉大な知性、完全な調和。 肌にあまりに心地いい風に、散歩しながら涙が溢れ出したことが何度もあります。 風が私の体の中をすり抜け、風を体ごと心ごと魂ごと感じた時 風が私に何かを伝えようとしてくれてるようで 体中に感動の鳥肌がたちました。 いよいよヒーリングルームの屋号を決めようと思った時、いろいろ書き出してみました。 木、川、水、風、虹、空、大地、山、流れ、開花・・・ 実際、どうしよ〜と迷いましたが、その中でなんか響きのいい「シエル」にしました。 シエルはフランス語で「空」「天」という意味です。 見上げればいつもそこにある広い空。 流れる雲を見守り、星を見守り、月を見守り・・・ そして、私たちを見守ってくれています。 空を眺めているだけで、なんだかホッとする時ありませんか? 私たちが自分の言葉や行動、思考や感情、体、を見守る時、それは「空」を意味すると感じます。 自分のすべてを観照する意識に気づき、それが「私」なんだと気づいた時 内なる沈黙、「大いなる存在との出会い」に気づくのです。 |

忙しく仕事をしていた頃は、ゆっくり空を見上げる事もないぐらいだったのに私はどんどん変化していきました。
あまりに、シンプルに「今」という瞬間を生ききる自然を感じ
こだわりや感情や過去をなかなか手放せないでいる自分に腹が立って仕方がない時期がありました。
そして、その私の怒りは自分だけでなく、周囲の人や人間そのものに向けられるようになり
なぜ人間はこんなにも自我(エゴ)にまみれているのか・・・と
一時、テレビを見ることもなくなり、誰とも会えなくなった時期がありました。
激しく移り変わる世の中、毎日起こる嫌なニュース・・・なんでなんだ・・・
テレビを見るとイライラするし、人と話すとイライラする、
そしてそんな自分にイライラする。
建ち並ぶ高いビルやまるで動脈のように走る電車に、あれほど可能性を感じワクワクした東京に、
そして、大好きな神戸の街並みにさえ
ただ利便性や欲望を追求した人間のエゴ・・・だけを感じるようになり、落ち込む一方でした。
それは、仕事もせず瞑想ばかりしている私に、周囲からも大丈夫なのかととても心配されていた頃でした。
もう「許し」しかない・・・全部許すしかない・・・そう思いました。
なかなか思うようにいかない自分を・・・同じように求めない人を・・・
自分のエゴを人のエゴを・・・
家の近くを本当によく散歩しました。
木を眺め、空を眺め、川を眺め・・・
何気ない自然の、あるがままの表現は、私に大きな受容と勇気を教えてくれました。
それは、社会や周囲の意見どおりに、流れるということではなく
また、人格から来る価値観や、欲望のままに・・・ということでもなく
自分に焦点をあわせ、中心を保ち、バランスをとりながら、自分自身の流れに身を任せる・・・
自分を大切にし、自分の変化を受け入れる、ということでした。
社会の中での「すべき自分」ではなく、「魂のありたい姿」に向けて、私はちゃんと目標を持っている。
それに向けてがんばっている、なかなか抜け出せない自分がいるけどそれでもがんばっている。
そんな風に、自分が今やっていることを認め、そして、その自分に価値を認めることができた時、
人もまたそれぞれの目的に向かってがんばってるんだ・・・とだんだん思えるようになってきました。
私は、ただ自分のことに夢中になればいいんだ・・・
自分を信頼すればいいんだ・・・自分が変わればいいんだ・・・と。
私の内なる世界への探究です。
自然を見ながら、「私」を手放せないでいる自分への苛立ち、そしてそれは私の視線を通し、
いつの間にか、目に映る自然と、人間や社会を比較し、自然のように生きられない人間のエゴや
無意識に対して、怒り、非難し、苛立っていたのでした。
そのことに気づき、そして、理想どおりであろうとすることで、「完璧」にはなりえないことに気づきました。
自分の不完全さを認めてこそ、そこに完全性を見出すことができると感じるようになったのです。
エゴを知ってこそエゴを超えることができる、人間だからこそあるもの、それを味わうことも必要なんだ。
それが人間なんだ。それに、私はそのエゴにもたくさん助けられてきた・・・。
そうして、自分のエゴも、あらゆる側面も、自分の大切な一部として、分け隔てすることなく、
「これも私だ」と丸ごと受け入れていく覚悟ができたのです。
それから少しずつ、人から心配される自分のことも許せるようになり、人から影響を受けることが減っていきました。
そして「なぜ伝わらない・・・、なぜわからない・・・」 という周囲に対する根深い不満や怒り、
そして、過去からも、私はゆっくり解放されていきました。
私の奥深くからの渇望。
私の奥に見つけられそうで見つけられない。掴めそうで掴みきれない何か・・・。
私が知りたかった何かは、感覚として、自然がそのまま教えてくれているのはわかっていました。
それが、ようやく、私の「理解」となった時、
私は深く深く癒され、人間として感じ、生きれることに、この瞬間を味わえることに
大きな喜びと感謝を感じるようになりました。
すべて、あるがままで完璧です。
私たち一人一人がただ自分自身を生きること。
外とのつながりを目指し、誰かのために何かのために生きるのではなく
自分を信頼し、自分は完璧な存在であり、自由な存在なんだと実感すること、そう実感できた時、
人もまた完璧な存在であり、私たちは自然と同じ、癒された存在なんだと実感していくことができるのです。
魂によって導かれる内なる流れに、身を任せて生きる勇気、あたたかく、優しく自分を見つめ、
自分の真の姿に気づく勇気を自然は教えてくれました。
あるがまま存在しているからこそ美しく、強く、儚く・・・
自然の表現は、私たちに感動を与えてくれるんだと思います。

人や自然やたくさんの出会いや出来事や、・・・あらゆるすべてに感謝を込めて 2007.9.1